楓様のSS「追憶」


 真っ白だった。
 見渡す限り真っ白で、足元の地面さえも見えないほどに真っ白だった。
 話には聞いていたものの、祐介にとってそれは未知なる物で不安にさせるものがある。
 徐々に濃さを増す霧はゆっくりと、確実に範囲を広めていった。
 一歩一歩を確かめて歩く。その足取りも軽くはない。
 方向感覚の働かない空間を彷徨うように、ただ歩いていた。
 目指している場所は湖だ。祐介も何度か足を運んだことがある。だが、今日は人から聞いた場所に向かうので、実際にそこに向かうのは初めてだった。
 朝の冷たい空気がこの時間だけとはいえ、それでも夏の気配を漂わせるような温度だった。祐介は長袖なので、ちょうど良いくらいだと思うくらいだ。
 前に来たときとは違う、初めて歩く道を恐らく歩いている。
 視界がはっきりしないからどうともいえないのだが、それでも歩いていることには変わりない。
 じゃりっ…じゃりっ…と土を踏み鳴らしていながらふと、ある話を思い出していた。
 ――霧が晴れていたら、その人は一生未婚に終わる。
 小一時間ほど前に聞いたばかりの話である。
 もちろん祐介はそんな伝承を信じてはいない。仮に信じているとしても、今日のように霧がたちこめているのならまったく問題がないわけであるからだ。
 早朝に祐介がこの場に訪れた時にはもう、霧が出ていたのである。
 だが、霧が晴れていて欲しいとも、実は思っていた。

『一生未婚に終わるなんて、哀しいことだな…』
『それでも、これから結婚をしないというわけだよな…』
『それはそれで、いいかも知れない…』
『その方が、幸せかも知れない…』
 来る途中に考えていた言葉が脈絡もなく現れる。
 そんな期待を裏切られたような、または助けられたような天気が眼前に広がっている。
 相変わらず、真っ白だった。

 ――この先にはちゃんと道があるのだろうか。
 そんな漠然とした不安が胸をよぎることがある。
 ――この道であっているのだろうか?
 続いて思うことは、いつもそうだった。
 ザワザワとした木の葉の擦れる音が少しずつ聞こえてくるのにしたがい、段々と祐介は落ち着きを取り戻していった。次第に、視界を覆う白も薄れていった。
 どうやら歩いているうちに目的の場所に着いたようである。湖の対岸にある小さなベンチ。旅館の女将に教えてもらった場所に間違いはないと思われる。
 まだ日は顔を覗かせていなかった。女将の話によると、霧が晴れていればここから見る朝日は綺麗ですよ、とのことらしいが、こんな様子では見れるかどうかは疑問である。
 祐介はとりあえず岸際の手すりにもたれかかるとそのまま、持ってきた煙草を吸い始める。もちろん前方はまだなにも見えない。朝日にでも光る湖面が見えたら、それは確かに綺麗だろうとは思えるが、そんな光景もまだ、ない。
 足元の湖面には祐介自身の姿は映っているものの、バックを白で彩られており、風でゆらゆらと岸に向かって打ちつけられていた。
 瞬間、突風が吹いた。
 思わず祐介は手にしていた煙草を落としてしまう。落とされた煙草は地面に落ちて、そして湖に吸い込まれてしまう。
 紅い光が消えて、まだ暗い湖の中に沈んでいってしまった。
「しまったな…仕方ないか」
 他のことは忘れていた祐介だったが、そこで異変に気付く事となった。
 霧が晴れていた。
 先ほどの強い風で、湖全体を覆っていた濃い霧は嘘のように姿をかき消していた。
 代わりに見えたのは少し小さめの山と、その後ろの小さな、そして光り輝く朝日だった。
「確かにこれは綺麗だな…」
 光を全身に浴びながら、キラキラと輝く湖を、景色を見ていた。

 どれくらいそうしていたかは分からない。
 ほんの少し太陽の位置がずれた辺りで、初めてその場から身を起こした。
「ん…?」
 後ろに何かの気配があった。
 だが、振り返ってみても誰もいない。数歩前に出て見ても、何も見あたらなかった。もちろん動物の類も全て。
 朝鳥のさえずり程度しか、この静かな空間には音は存在していなかった。
 気のせいだろう…そう思って今度は前を見てみる。すると…
「…………」
 言葉をそこで失った。

 彼女は祐介を背にして立っていた。
 光の当たる湖面の方、光が発せられる方に。
 長く艶やかな髪を風になびかせて、後ろ手の体勢で立っている。
 小柄な身体は雰囲気どおりの少女の姿で、
 ゆっくりと振り向いた顔にも見覚えがありすぎていた。
 少しサイズの大きい服装が子どもっぽくも見えていて、
 その顔を見れば大人のような気がする、不思議な少女だった。
 黄色いワンピース。
 祐介にとって、何度も見たことのある服装だった。
 それでも、こんな光景を見るのは初めてであり、こんな光景を見ることになるとは思いもよらなかったのである。
 信じられるはずもなかった。彼女は…
「祐介…さん」
 彼女の口が僅かに動く。祐介は呼ばれた。
「………え?」
 その言葉だけで祐介は正気にもどることが出来た。ある程度は。
「…お久しぶりです。二ヶ月振りくらいです」
 最初に感じた違和感のことが、分かった。
 おとなしい性格である『彼女』は瞳を伏せたまま続けた。
「ああ…それくらいだね、翔子ちゃん」
「ご無沙汰しています」
「びっくりしたよ…」
 翔子は何も言わないので、祐介は続ける。
「そっくりだった…君が話し掛けなければ分からないくらいだった」
「普段は髪を結っていましたので…それでです」
 ああ…と祐介は言葉を漏らした。それっきり二人は黙ってしまう。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
 先に口を開いたのは翔子の方であった。
「何かな?」
「…お姉ちゃんのことです」
 ややためらうように、翔子は答えた。
 祐介の表情は一瞬で固くなる。
「………………」
「いいですか?」
「ああ…」
 曖昧にも、祐介は一応返事をした。

「お姉ちゃんが最後に話してくれたことです。祐介さん」
「………」
『私のことは気にしないで、幸せになってください』
「……………」
 なんとなくは予想が出来た言葉だった。
 でも、信じたくない言葉だった。
『いなくなってしまう私じゃなくても、貴方を見守ってくれる人はいるから……』
 目の前の少女ではなく、本人から聞いているような気にさえなってしまった。
 そして翔子は続けた。
「私は…祐介さんのことが好きです」
「…………」
「お姉ちゃんの後ろでずっと見てました……今言うべき言葉じゃないのに…」
 ぽろぽろと、少女は泣き出していた。
「祐介さんの気持ちは分かっているのに…」
 少女は自問を繰り返している。辛い質問を浴びして答えられないでいる。
「それでも、私は祐介さんのことが好きです。ずっと一緒にいたいと思っています」
「俺は…」
 祐介は言葉に詰まる。





「祐介」
「一度だけ言うから、良く聞いてね」
「なんだ? 改まって」
「もしね…私が居なくなっちゃったりでもしたら…」
「おいおい…なんだよそれ?」
「だから、もしものときって言うことよ…でね」
「うんうん」
「そのときは、妹を見てあげてくれないかな?」
「…翔子ちゃんを?」
「あの子は大切な妹だし、優しい子だからきっと辛いと思うのよ」
「ああ…分かった。心配するなって…そんなこと起こらないからさ」
「そうね。それに…」
「え?」
「…うふふ、何でもない」

 あの時の言葉の意味が、今ではよくわかった。
 祐介…いや俺ははっきりと答えた。
「俺も翔子ちゃんのこと、好きだよ」
「え…」
「二人とも好きだった、っていう都合のいい話はダメなのかも知れないけど…俺は、二人のことが好きだったんだと思う」
「祐介さん…」
「…さ、帰ろうか。今日はこれからそっちに訪ねようと思ってたんだ」
「はい。そうだったのですか」
「ああ。あいつに報告したいこともあるしね…」
 そういって少し笑って見せた。
「分かりました。じゃあ一緒に行きましょう」
 先に歩きだすと、後ろに翔子がついてくる。
 昔から変わってないな、と思った。

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